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滴色

好きなことを、好きなだけ。

花尾と躑躅

一次創作

花尾少年と躑躅のお姉さん。

  これは俺が小さい頃の話だ。小さい頃の、と表現すると何歳くらいを想像されるか分からないので、具体的に言っておく。確か小二の、俺の記憶が間違っていたとしても小三の春のことだった。
 自宅から小学校までの通学路は徒歩で十五分ほどの道のりだった。大人になった今ではもっと短い時間で歩けるけれど、当時はそれくらいだったように思う。俺の育った場所は大きな工場を誘致したことによって栄えた街で、その会社が作った娯楽施設が幾つかあった。通学路の半分くらいを占めていたテニスコートも、そのうちの一つだ。家のすぐ横が屋内プールのあるスポーツセンターで、その隣がテニスコート。その横には二、三軒の家があって、道路がある。信号機の代わりに歩道橋を渡れば、今度は四軒ほどの家がある。そこを通り過ぎれば道路の右手に中学校、左手に小学校という場所だった。
 テニスコート沿いには躑躅の花が植えられていた。だから四月や五月頃にその道を通ると、白や紅の花々が美しく咲き誇っていたことをよく覚えている。綺麗だなぁ、と思って触れた花は日を追うごとにより美しくなっているようで、整備されたものであったとはいえ子どもながらに自然を満喫していたように思う。集団登校と集団下校を取り入れている小学校であったから、近くに住む子ども同士で登下校を一緒に行っていた。仲が良いかどうかについては考慮されておらず、その点については改良の余地があるのかもしれない。それでも、少なくとも俺にとっては良い制度であったのだろう。登校時は勿論のこと、稀に下校時にも混ざる上級生からは様々なことを教わった。そのうちの一つが「躑躅の蜜は甘い」ということだ。幼心にも衛生のことを考えて、少し上の花を摘み取る。そして、蜜を吸う。当たり、外れがあるその「おやつ」は、子ども達が共有する秘密だった。この秘密が大人にばれてしまったら、それこそ衛生的によろしくないだとか行儀が悪いだとかそんなことを言われてしまって、とにかく面倒なことになっていただろう。
 件の日もまた、俺は躑躅の蜜を吸っていた。些細なことで友人と喧嘩してしまい、一人で帰らなければならなくなった寂しさを紛らわせていたのだと思う。一人で、とは言うが小学生の下校時間にそこまで大きなばらつきはなく、いつも一緒に帰る顔ぶれが傍に居ないというだけだ。視界に入る範囲には幾つか他の下校グループが歩いていた。だから一人であることは恐ろしくなかったものの、寂しかった。笑い声には耳を塞ぎ、考える。摘み取りたい花の奪い合いをすることもない。だから好きなだけ好きな花の蜜を吸えるんだ、なんて。強がりながら花に手を伸ばしていた。
 さて次はもう少し上の、と背伸びをして持ち上げた指先に、別の白い指先が触れた。
 その女性は、唐突に現れた。いくら躑躅の花に意識を向けていたのだとしても道は直線。視界の端には他の下校グループの姿が入り込んでいた。それなのに、その女性はなんの前触れもなく現れたのだ。当時はそれだけで恐ろしかったのだが、今になって考えてみると、あれは反対側の歩道からこちら側へとやってきたのだろう。つまりは俺の真後ろから。道が直線で視界の端に入り込む、というのは同じ側の歩道を歩いていたから。反対側の歩道なんて、躑躅に向かってしまうと自分の後ろ側になってしまう死角である。きっと、彼女はその死角から現れたのだ。
 俺が摘み取りたくて手を伸ばしていたその花を、女性はいとも簡単に摘み取ってみせた。けれどもそれは自身が蜜を味わうためではなく、背伸びをしてもなお、届きそうにない俺の姿を見かねてのことであったらしい。はい、と渡されたその花の蜜は、これまでに吸ったどの蜜よりも美味しかった。
「えっと……ありがとう、ございます」
「どういたしまして」
 何かをしてもらった時には必ずお礼を。口煩く大人たちに言われ続けていたことであったから、少々吃りはしたものの何とかそれを口にできた。ちゃんと言えて偉いぞ、と撫でてくれるその女性がどこの誰であるのかということは、もう気にならなくなってしまっていた。その時の俺にとってその女性は「手の届かない場所にあった花を摘み取ってくれた人」で、同時に「当たり前のことをしただけなのに頭を撫でて褒めてくれるいい人」であったから。一人で帰らなければならなかった寂しさもまた、その思いに拍車をかけていたのかもしれない。
 その日はそれで別れてしまったのだが、その後もその女性は俺や俺の友達の前に現れた。まだまだ小さな俺たちには手の届かない場所にある花を摘み取ってくれるその人のことを、俺たちは「躑躅のお姉さん」と呼んだ。名前を訊いても教えてはくれず、好きに呼べばいいよと言ったからだ。初めてそう呼んだ時には少し驚いた顔をして、そして随分と楽しそうに笑っていた。何がおかしいのかと不思議に思ったけれど、どうやら喜んでくれたようだったからさして気にも留めていなかった。
 四月の中頃から躑躅のお姉さんは俺たちに花を摘み取って与え続けてくれていた。けれど、五月も中頃を過ぎる頃には道中の花も目に見えて減り、単純ではあるが「躑躅の花がなくなってしまえば、お姉さんとはどうなってしまうのだろう」という疑問が浮かぶようになった。しかし、それを直接尋ねることは難しく、いつまでも胸の内に燻り続けているものだと思っていたのだ。それが解消された日のことを、幸か不幸か俺はとてもよく覚えている。
 躑躅の道が途切れた場所、テニスコートとスポーツセンターとを分ける十字路で、俺たちと躑躅のお姉さんはいつも別れていた。いつものように別れる間際、その日は躑躅のお姉さんがそっと、俺に近付いて囁いた。後でこっそりテニスコートにおいで、と。ひと月ほど優しくしてもらったその記憶のお陰で彼女を信頼しきっていた俺は、どうして今日だけ、と思いながらも素直にその場所に向かった。コートにいるのは躑躅のお姉さんと俺の二人だけ。それなのに人目を避けるように、手を引かれるまま物陰へと足を進めた。整備の為の用具小屋と敷地を区切るためのフェンスの間、向こう側から伸びてきている白い躑躅の下に潜り込むように。
「何で隠れるの?」
「誰にも邪魔されたくないもの」
 そう言って笑ったお姉さんの顔がゆっくりと近付いてきて、そして唇に何かが触れた。良く分からないなりにもそれをぺろりと舐めてみると、お姉さんは嬉しそうに笑って離れていった。
「甘い、ね」
「当然。だって私は躑躅のお姉さんだから」
 嬉しそうに、とても嬉しそうに彼女は笑っていた。何が起こっていたのかは分からなかったけれど、お姉さんが喜んでいるのならばきっと大丈夫だと思っていた。
「あのね、お願いがあるの」
 これから何をするつもりなのだろうかと胸を踊らせていた俺に、お姉さんは相変わらず嬉しそうに笑ったまま酷いことを言ったのだ。
「私を、食べて」
 そしていつも俺たちのために躑躅の花を摘み取ってくれていた白く美しい指先を、そっと俺の唇に押し当てた。どうすれば良いのか、分からなかった。食べるということは、口に含んで噛み切り、そして飲み込むということだった。お姉さんが何を望んでいるのかが分からなかった。尋ねようと唇を薄く開くと、するりと指先が潜り込んで歯と歯の間に収まった。吐き出そうにも、逃げ出そうにも、優しく笑いながら「私を食べて」と口にする彼女が得体の知れない何か別の存在であるような気がして、恐ろしくなる。身体はどこもかしこも錆び付いてしまったように動かなかった。視界の端に咲いている白色が、まるで俺を責めているようだった。
 動こうとしない、俺に食べられたいと望むお姉さんにしてみれば噛もうとしない俺に焦れたのか、お姉さんは指先はそのままにどこか困った様子で言葉を変えた。
「私のこと、好きでしょう?」
 歯の間には指があるから喋れない。だから小さく、頷いた。出会ってからのお姉さんは、いつだって優しかった。その記憶は得体の知れない恐怖の中にも確かにあった。彼女が優しく、そして俺が彼女を好きだったことは事実だった。勿論、それが恋愛感情であるかどうかは問題ではない。好きか嫌いかという二択において、前者に比重が大きく傾いたという話である。
 早く、いつもの優しいお姉さんに戻ってほしかった。得体の知れない恐怖の時間が早く終わるようにと、そればかりを願っていた。
「それならね、少し、舐めてみて」
 それくらいなら、と思った。食べること、噛み切って飲み込むことは難しい。けれども舐めるだけならば。それならば先程もやったことと変わりはないだろう、と。
 粗相をしないよう奥で縮こまっていた舌を、ゆっくりと伸ばす。先端に触れたものを、ちろりと舐める。お姉さんの様子を伺うとどこか満足した様子であったから、もっと、というその言葉に従った。歯を立てぬよう、慎重に。少しずつ、少しずつ。何故だかその指は。
「甘い?」
 そう、甘かった。いつもお姉さんが渡してくれた、あの花の蜜。摘み取り続けていたそのせいで、味が指先に移ってしまったのかとさえ思った。横に咲いていた白色を、いつの間に摘み取ったのかとも思った。こんな状況でなければもっと美味しかっただろうに、と思った。それは事実だった。
 これまた嬉しそうに笑ったお姉さんは、とても幸せそうだった。舐められ続ける指先が擽ったいのか、それとも俺が求めに応じて動いているからなのか、とにかく幸せそうだった。
「じゃあ、少し歯を立てて。大丈夫だから、ね」
 少しという言葉が理由だったのか、それとも大丈夫という言葉が決め手だったのか。どちらにせよ、噛み切ることは無理でも少し歯を立てるくらいなら、と思わされてしまったのだ。きっと、歯形が少し残るくらいだろう、と。
 だから、そっと、歯を立てた。かり、と何かが音を立てたようで、そして口内に嗅ぎなれた匂いが広がった。いつもお姉さんが与えてくれていた、あの花の香り。驚いた舌が感じ取ったのは、いつものあの蜜の味。身を引いても、彼女は何も言わなかった。隣で白が、揺れる。
「甘い?」
 確かに甘かった。けれど、素直に頷くことはどうしたってできなかった。自分が何をしたのか。確認することのできない口の中で何が起こったのか。そればかりが思考を埋め尽くしてしまって、他には何も考えることができなかった。同じ言葉を繰り返されたのでそこで何とか頷くと、お姉さんはまた笑った。幸せそうに。けれども今度は泣きながら。そうやって笑う人を初めて見たものだから、喜んでいるのか、悲しんでいるのかの判断に悩んだ。一瞬だけ、恐怖を忘れていた。もしかしたらそれは逃避だったのかもしれない。
「それじゃあね、私を食べて」
「い、やだ」
「大丈夫だったじゃない。私にはね、もう時間がないの」
 ちゃんと残さず、私を食べてね。
 お姉さんがそれを言い切る前に、強い風が吹いた。思わず目を瞑ってしまいながら、擦れ合う葉の音、風の音に混ざった言葉を拾い上げた。そして風が収まって瞼を上げた時、そこには誰もいなかった。辺りを見渡してもそこにあるのは用具小屋とフェンス、そしてあの指先のように美しく白い躑躅の花。彼女の姿はどこにもなかった。
 あれは何だったのか、と戸惑った俺の手には何故だか躑躅の花があった。手の届く範囲には白い花しかないというのに、その花は赤かった。どうして、とまじまじ見つめたその花弁。一部がほんの少し欠けていて、それがどうも歯形であるような気がしてしまってから、何故だかそれがあの躑躅のお姉さんなのだと思ってしまった。初めて「躑躅のお姉さん」と呼ばれた時に驚きつつも笑ったのは、こういうことだったのか、と胸にすとんと落ち着いた。
 私を食べて、と繰り返されていた言葉がずっと残っていた。手中の花があの優しかったお姉さんなのだと思いつつ、今ならばあの願いを叶えてやることができる気がした。歯を立てた跡のある花弁を、そっと食む。そして、かり、と。つい先程にも感じた匂いと味が、口内に満ちた。それは酷く甘く、優しかった。
 衝撃が大きすぎたのか、随分と長くこの一件は忘れていた。思い出したのは、つい最近。経営難でスポーツセンターとテニスコートが潰されて、跡地に家を建てることになったからだ。土地を掘り起こしている最中、躑躅の下から人の骨が見つかったらしいという噂を聞いたからだ。根に絡み付かれる形で発見されたそれがいつの時代のものなのかは分からないものの、土中とはいえここまで美しい状態で残っていることは珍しいと専門家に言わしめたそれ。骨格から察するに、どうやら女性の骨であるらしいとも。
 その話を聞いた時、何故だか真っ先に浮かんだのがあの躑躅のお姉さんだった。俺がお姉さんを食べて以来、友人たちは彼女をすっかり忘れてしまっていた。前日に会ったばかりであったにも関わらず、そんな人は知らないと。彼らがそのように言うものだから、俺もまた、次第にお姉さんのことは忘れてしまっていた。あの強烈な別れの記憶には蓋をして。こじ開けられてしまったのは、お姉さんが再び現れたからだ。その姿形は異なるのだが、確かに、それは彼女だった。
 そう、俺は躑躅のお姉さんを食べた。どうしてこんなにも長々と話をしたのかというと、もう満腹なのだということを分かって欲しかったからだ。実はこの後に、菊だった彼女も食べた。それだけで満足なんだ。俺はもう食べたくないんだよ。だからね、もう諦めてくれないか竜胆の人。俺は、お前を食べてやれない。